パリ万博

1900年(明治33年)パリ万博のパノラマビュー

パリの地下鉄入口

グラン・パレ
この頃、ドイツやアメリカは重工業部門で目覚ましい発展を遂げたが、フランス政府は自国が優位に立てる手工芸・装飾芸術に力を入れ、これがアール・ヌーヴォーだったのである。
展示会場として、グラン・パレとプティ・パレが建設され、ロシア皇帝ニコライ2世の寄付によりセーヌ川両岸を結ぶアレクサンドル3世橋が架けられた。また、当時世界最大だった高さ100メートルの観覧車「グランド・ルー・ド・パリ」が公開された。
また、電気を利用したアトラクションが用意され、全長4kmの動く歩道や電車、エッフェル塔にエスカレータが設置され話題となった。
1895年(明治28年)に世界初の映画を上映したリュミエール兄弟がシネマトグラフによる映画上映を行い、話題を集めた。

夏目漱石は、ロンドン留学の途上にパリ万博を見物した。
ロンドン公演を終えたばかりの川上音二郎一座が招かれ、川上貞奴はマダム貞奴として出演して人気を集めた。
また、電気を利用したアトラクションが用意され、全長4kmの動く歩道や電車、エッフェル塔にエスカレータが設置され話題となった。
1895年(明治28年)に世界初の映画を上映したリュミエール兄弟がシネマトグラフによる映画上映を行い、話題を集めた。

夏目漱石は、ロンドン留学の途上にパリ万博を見物した。
ロンドン公演を終えたばかりの川上音二郎一座が招かれ、川上貞奴はマダム貞奴として出演して人気を集めた。
プランクの法則の発見

マックス・プランク
鉄は国家なり――19世紀末のドイツでは、良質な鉄を得るために溶鉱炉の温度を正確に測定する実験が続いていた。当時、光は波としての性質を持ち、波の高さがエネルギーの大きさを示し、エネルギーが大きくなる(=温度が高くなる)ほど光のスペクトルのピークが短波長寄りにシフトしていくと考えられていた。ところが、どんな公式を考えても、実験と辻褄が合わなかった。
この問題に対し、ドイツの物理学者マックス・プランクは、次の2つの仮定を置くことで実験結果に適合することを提唱した。
この問題に対し、ドイツの物理学者マックス・プランクは、次の2つの仮定を置くことで実験結果に適合することを提唱した。
- 電磁波のエネルギーは最小エネルギーの整数倍をとる
- 最小エネルギーは電磁波の周波数に比例する

黒体放射スペクトル
これを公式化したものがプランクの法則で、黒体から輻射される電磁波の分光放射輝度は、周波数 ν と温度 T の関数として次のように表すことができる。
\[ \displaystyle I(v,T)\ =\ \frac{2hv^3}{c^2}\frac{1}{e^{hv/kT}-1} \]
ここで、hはプランク定数、kはボルツマン定数、cは光速度である。
プランクは、きわめて小さいプランク定数の値を今日と1%しか違わない精度で報告した。
\[ \displaystyle I(v,T)\ =\ \frac{2hv^3}{c^2}\frac{1}{e^{hv/kT}-1} \]
ここで、hはプランク定数、kはボルツマン定数、cは光速度である。
プランクは、きわめて小さいプランク定数の値を今日と1%しか違わない精度で報告した。

アルベルト・アインシュタイン
だが、エネルギーが連続ではなく離散的な値をとることは、当時の科学常識からかけ離れたもので、しばらくは受け入れられなかった。
だが、アルベルト・アインシュタインはプランク定数が光子1個がもつエネルギーであることに気づき、1905年(明治38年)に光量子仮説を提唱する。
こうして、プランク定数は量子力学の重要な定数となり、マックス・プランクは期せずして量子論の創始者のひとりに数えられるようになり、1918年(大正7年)にノーベル物理学賞を受賞。
だが、アルベルト・アインシュタインはプランク定数が光子1個がもつエネルギーであることに気づき、1905年(明治38年)に光量子仮説を提唱する。
こうして、プランク定数は量子力学の重要な定数となり、マックス・プランクは期せずして量子論の創始者のひとりに数えられるようになり、1918年(大正7年)にノーベル物理学賞を受賞。
1914年(大正3年)に第一次世界大戦がはじまると、プランクは戦争を支持し、他の科学者らとともにドイツの戦争を支援する「93人のマニフェスト」に署名した。だが、1916年(大正5年)に長男が戦死し、次男がフランスの捕虜になるなど、次第に反戦に傾いていった。
戦後、ドイツ科学の地位を守るために奔走し、1934年(昭和9年)にアドルフ・ヒトラーが総統になってからも、カイザー・ヴィルヘルム協会の会長職にとどまった。アインシュタインの追放に対してヒトラーに意見したこともあった。
1936年(昭和11年)4月、カイザー・ヴィルヘルム協会の会長職を退き、講演会や著書で政府批判を続けた。次第に言論統制が厳しくなり、ベルリンへの空襲も激しくなり、ゲッティンゲンへ疎開する。
第二次世界大戦が終わると、荒廃したドイツ科学界を立て直すため、87歳のプランクにカイザー・ヴィルヘルム協会会長職への就任が打診された。だが、占領軍はカイザー・ヴィルヘルムの名を使うことは禁じ、1946年(昭和21年)9月11日にマックス・プランク研究所と改名され、プランクは名誉会長となった。1947年(昭和22年)10月、ゲッティンゲンにて死去。
マックス・プランク研究所は21世紀に入っても物理学研究の一大中心地として、様々な画期的研究成果を挙げている。
戦後、ドイツ科学の地位を守るために奔走し、1934年(昭和9年)にアドルフ・ヒトラーが総統になってからも、カイザー・ヴィルヘルム協会の会長職にとどまった。アインシュタインの追放に対してヒトラーに意見したこともあった。
1936年(昭和11年)4月、カイザー・ヴィルヘルム協会の会長職を退き、講演会や著書で政府批判を続けた。次第に言論統制が厳しくなり、ベルリンへの空襲も激しくなり、ゲッティンゲンへ疎開する。
第二次世界大戦が終わると、荒廃したドイツ科学界を立て直すため、87歳のプランクにカイザー・ヴィルヘルム協会会長職への就任が打診された。だが、占領軍はカイザー・ヴィルヘルムの名を使うことは禁じ、1946年(昭和21年)9月11日にマックス・プランク研究所と改名され、プランクは名誉会長となった。1947年(昭和22年)10月、ゲッティンゲンにて死去。
マックス・プランク研究所は21世紀に入っても物理学研究の一大中心地として、様々な画期的研究成果を挙げている。
参考書籍
![]() |
宇宙を支配する「定数」 | ||
著者 | 臼田 孝 | ||
出版社 | 講談社 | ||
サイズ | 新書 | ||
発売日 | 2022年02月17日頃 | ||
価格 | 1,100円(税込) | ||
ISBN | 9784065273296 | ||
万有引力の法則から相対性理論、量子力学まで、宇宙の成り立ちを説明する物理法則には、必ず「固有の値」=物理定数が登場する。物理定数とは何か?なぜ、一定の値をとるのか?その値はどう決まるのか?そして、本当に「一定不変」か?宇宙の誕生と進化を司る「究極の値」のすべてー。 | |||
この時代の世界
(この項おわり)
万博の付属大会として、5月14日から10月28日にはパリでオリンピックが開催された。
美術商サミュエル・ビングが出店した店が注目を集め、店名「アール・ヌーヴォー」は、今回の万博だけでなく、この時代のフランスを象徴する美術様式の呼称となった。