
1928年8月27日、仏外相ブリアンと米国務大臣ケロッグが提唱して実現した戦争を否定する初の国際条約、パリ不戦条約(ブリアン=ケロッグ協定)が結ばれる。ソ連、ドイツ、日本も含む15カ国が調印。戦争放棄の理念は日本国憲法の源流となった。

アリスティード・ブリアン
第一次世界大戦で大きな被害を被ったフランスは、ベルサイユ条約で勝ち取ったドイツからの賠償金の回収が急務だった。しかし、普仏戦争に続いて二度の対独戦争に見舞われたフランス国民は、ドイツに対して不信感を抱いたままだった。そこで、1923年には、炭鉱と工業地帯のあるルール地方を占領し、ドイツに賠償金の支払いを求めた。
ところが、このフランスの行動に国際社会が反発。フランスは自国防衛のみを主張する形に限界を感じ、集団安全保障へと考えを転換し、エリオ内閣とそれを受け継いだブリアン外相が、まずはアメリカに働きかけ、やがて15カ国が調印するに至った。各国とも第一世界大戦で疲弊しており、国際連盟を機能させ、二度と再び世界大戦を起こさないという願いを込めて結ばれた条約だった。
ところが、このフランスの行動に国際社会が反発。フランスは自国防衛のみを主張する形に限界を感じ、集団安全保障へと考えを転換し、エリオ内閣とそれを受け継いだブリアン外相が、まずはアメリカに働きかけ、やがて15カ国が調印するに至った。各国とも第一世界大戦で疲弊しており、国際連盟を機能させ、二度と再び世界大戦を起こさないという願いを込めて結ばれた条約だった。

フランク・ケロッグ
だが、アメリカは条約締結にあたり、重大な条項を付帯させた。それは、この条約は「いかなる点においても自衛権の制限もしくは毀損を意味してはいない。この権利は、各主権国家に固有のものであり、あらゆる条約に事実上含まれている」と表明し、自衛のための戦争は可能であるという選択肢を残したことである。また、この条約には「侵略」の定義がなく、侵略に対する具体的な「制裁」も明文化されていなかったため、その効力には疑問が残った。
とはいえ、パリ不戦条約が有効に働き、国際連盟が順調に機能し、1931年には世界中に再び平和な時代が訪れた。だがその年の9月18日に満州事変が勃発する。日本は中国侵略を自衛権の発動と強弁するため、「事変」という用語を使わざるを得なかった。
とはいえ、パリ不戦条約が有効に働き、国際連盟が順調に機能し、1931年には世界中に再び平和な時代が訪れた。だがその年の9月18日に満州事変が勃発する。日本は中国侵略を自衛権の発動と強弁するため、「事変」という用語を使わざるを得なかった。
国際連盟は、日本の中国における軍事行動を自衛権に当たらないと判断し、パリ不戦条約違反と糾弾した。そして、日本は1933年に国際連盟を脱退することになった。
一方で、パリ不戦条約を締結した同じ頃、イタリアにはムッソリーニ首相が率いるファシズム大評議会が一党独裁体制を敷き、ドイツでは1934年8月、アドルフ・ヒトラーが国民投票で大統領に就任した。パリ不戦条約は、こうした独裁者の台頭を防ぐことができず、結果的に第二次世界大戦へと突き進んでいく。

1945年8月に太平洋戦争が終結すると、極東軍事裁判で、日本のパリ不戦条約不履行が問題として取り上げられた。そして、1946年11月3日に公布された日本国憲法には、パリ不戦条約の第1条と第2条とほぼ同じ内容が、第9条として盛り込まれることになった。

ちなみに、ブリアン外相は、ジュール・ヴェルヌ『十五少年漂流記』に登場するブリアン大統領のモデルである。
一方で、パリ不戦条約を締結した同じ頃、イタリアにはムッソリーニ首相が率いるファシズム大評議会が一党独裁体制を敷き、ドイツでは1934年8月、アドルフ・ヒトラーが国民投票で大統領に就任した。パリ不戦条約は、こうした独裁者の台頭を防ぐことができず、結果的に第二次世界大戦へと突き進んでいく。

1945年8月に太平洋戦争が終結すると、極東軍事裁判で、日本のパリ不戦条約不履行が問題として取り上げられた。そして、1946年11月3日に公布された日本国憲法には、パリ不戦条約の第1条と第2条とほぼ同じ内容が、第9条として盛り込まれることになった。

ちなみに、ブリアン外相は、ジュール・ヴェルヌ『十五少年漂流記』に登場するブリアン大統領のモデルである。

この時代の世界
(この項おわり)