
弥太郎は県から土佐藩所有の船三隻を買い受け、1873年(明治6年)に三菱商会と改称し、海運と商事を中心に事業を展開してゆくことになる。
西南戦争の際には、政府側の軍隊・軍需品の輸送を一手に引き受け、巨万の富を掌中にする。

ちなみに、龍馬は生前に象二郎とよく飲食をし、その費用を弥太郎が工面していたことが分かっている。
西南戦争の際には、政府側の軍隊・軍需品の輸送を一手に引き受け、巨万の富を掌中にする。

ちなみに、龍馬は生前に象二郎とよく飲食をし、その費用を弥太郎が工面していたことが分かっている。
この時代の世界
参考書籍
(この項おわり)
岩崎弥太郎は土佐藩の下級武士であった。
藩の実力者である後藤象二郎は弥太郎の能力を見いだし、同じ土佐藩出身の坂本龍馬が暗殺されたことで解散した海援隊の後身として大阪の土佐藩蔵屋敷で始めた九十九商会の監督を、1870年(明治3年)、弥太郎に任せた。さらに翌年の廃藩置県後、九十九商会は個人事業となった。