西暦1614年 - 大阪冬の陣

家康が豊臣勢力を弱める
大阪城 徳川家康1603 年に征夷大将軍となり、同年、孫である千姫 (せんひめ) 豊臣秀頼 (とよとみひでより) に輿入れさせた。その 2 年後には息子の秀忠に将軍職を譲り、徳川幕藩体制を盤石なものにしつつあった。
しかし、大阪の豊臣氏だけは別格扱いであり、その対応に苦慮していた。
家康は、豊臣家の財力を削ぐために方広寺 (ほうこうじ) を再建させた。
1614 年には完成した梵鐘の銘文に「国家安康」「君臣豊楽」と刻まれていたが、家康の相談役である崇伝 (すうでん) らは、「国家安康」は家康の諱を分断し、「君臣豊楽」は豊臣家の繁栄を願い徳川家に対する呪詛が込められていると断定した。
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これをきっかけに両家の対立は決定的なものになり、大阪城の豊臣軍10 万と徳川幕府軍20 万が衝突した。
難攻不落といわれる大阪城にあって豊臣軍は善戦し、幕府軍は兵糧に限界があったことなどから、2週間ほどで和議が成立した。講和の条件として、大阪城の外堀と内堀は埋め立てられた。
YEAR
1520
1545
1570
1595
1620
1645
1670
 
1536
豊臣秀吉
1598
 
1600
 
関ヶ原の戦い
 
1593
豊臣秀頼
1615
 
1567
淀君
1615
 
1567
真田幸村
1615
 
1603
 
徳川家康が征夷大将軍に
 
1614
 
大阪冬の陣
 
1615
 
大阪夏の陣
 
1542
徳川家康
1616
 
1579
徳川秀忠
1632
 
1569
崇伝
1633
 
1536
天海
1643
 
1596
後水尾天皇
1680
 
1615
 
武家諸法度、禁中並公家諸法度

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(この項おわり)
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