|
徳川家康は1603 年に征夷大将軍となり、同年、孫である しかし、大阪の豊臣氏だけは別格扱いであり、その対応に苦慮していた。 |
|
家康は、豊臣家の財力を削ぐために 1614 年には完成した梵鐘の銘文に「国家安康」「君臣豊楽」と刻まれていたが、家康の相談役である これをきっかけに両家の対立は決定的なものになり、大阪城の豊臣軍10 万と徳川幕府軍20 万が衝突した。 難攻不落といわれる大阪城にあって豊臣軍は善戦し、幕府軍は兵糧に限界があったことなどから、2週間ほどで和議が成立した。講和の条件として、大阪城の外堀と内堀は埋め立てられた。 |
|
大阪城付近の地図 |
||
|
|
||
この付近でネットができる宿 |
|
|
|
(この項おわり)
|
|
|
|
2009年09月25日 作成
2009年09月25日更新
Copyright by studio pahoo, (C)2009
(※)本ページはリンクフリーですが、複製・転載時にはご一報ください。 ★本ページへのご意見・ご質問・お便りは、ここをクリックしてください。 |