「君が代」が完成

イザベラ・バード『日本奥地紀行』

大英帝国の女性旅行家イザベラ・バードは、1878年(明治11年)6月から9月にかけて、東京を起点に日光から新潟県を通り、日本海側から北海道に至り、その旅行記を1880年(明治13年)に『日本奥地紀行』(原題 Unbeaten Tracks in Japan)として出版した。
外国人の目を通して明治の日本を知る貴重な文献であり、とくにアイヌの生活ぶりや風俗については、アイヌ研究が本格化する前の状況を公にした唯一の文献でもある。
外国人の目を通して明治の日本を知る貴重な文献であり、とくにアイヌの生活ぶりや風俗については、アイヌ研究が本格化する前の状況を公にした唯一の文献でもある。
イザベラ・バードは1831年(文政14年)、イングランド北部ヨークシャーの牧師の家に生まれる。1857年(安政3年)に父親を亡くし、母と妹ともにエジンバラに転居。ジョン・フランシス・キャンベルの著書を読み、キャンベルが日本で世話になったコリン・アレクサンダー・マクヴェインが帰国すると、そのもとを訪れ、日本の情報を集めた。
イザベラ・バードは、1878年(明治11年)4月にエディンバラを出発し、西回りで5月20日に横浜に着いた。ここでヘボン博士を訪ね、通訳兼従者として雇った伊藤鶴吉とともに、東京を出発点に、日光から新潟、北海道へ旅をした。10月には、神戸、京都、伊勢、大阪を訪ね、同志社のJ.D.デイヴィスと新島夫妻と面会した。
1881年(明治14年)にピショップ博士と結婚。
1886年(明治19年)に夫が亡くなると、療伝道を目的に1889年(明治22年)よりインドからペルシャ、チベットへ旅する。
1891年(明治24年)に、女性として初めて王立地理学協会特別会員となる。
1894年(明治27年)、カナダ経由で清国、日本、朝鮮を旅した。
1901年(明治34年)には半年間モロッコを旅し、中国への再度の旅行を計画していたが、1904年(明治37年)にエディンバラで死去した。
イザベラ・バードは、1878年(明治11年)4月にエディンバラを出発し、西回りで5月20日に横浜に着いた。ここでヘボン博士を訪ね、通訳兼従者として雇った伊藤鶴吉とともに、東京を出発点に、日光から新潟、北海道へ旅をした。10月には、神戸、京都、伊勢、大阪を訪ね、同志社のJ.D.デイヴィスと新島夫妻と面会した。
1881年(明治14年)にピショップ博士と結婚。
1886年(明治19年)に夫が亡くなると、療伝道を目的に1889年(明治22年)よりインドからペルシャ、チベットへ旅する。
1891年(明治24年)に、女性として初めて王立地理学協会特別会員となる。
1894年(明治27年)、カナダ経由で清国、日本、朝鮮を旅した。
1901年(明治34年)には半年間モロッコを旅し、中国への再度の旅行を計画していたが、1904年(明治37年)にエディンバラで死去した。
この時代の世界
(この項おわり)
しかしフェトンの作曲は不評で、海軍省は宮内省式部寮雅楽課に作曲を委託した。
こうして1880年(明治13年)に「君が代」が誕生する。