
東京商法会議所
1878年(明治11年)3月12日、東京商法会議所(現・東京商工会議所)が設立され、初代会頭に渋沢栄一が就任する(任期は1905年(明治38年)4月まで)。
現在の東京商工会議所の周辺地図
【鉄道】

- 東京メトロ千代田線「二重橋前〈丸の内〉」駅直結(B5出口)
- 東京メトロ日比谷線・千代田線「日比谷」駅直結(B5出口)
- 都営三田線「日比谷」駅直結(B5出口)
- JR「有楽町」駅 国際フォーラム口より徒歩5分
- JR「東京」駅 丸の内南口より徒歩10分

渋沢栄一の足跡
NHK大河ドラマ第60作『青天を衝け』(2021年2月放映開始)は、渋沢栄一を主人公に、幕末から明治までの時代を描く。

渋沢栄一は、1840年(天保10年)2月13日、現在の埼玉県深谷市の豪農の家に生まれる。藍玉の製造販売を手掛けており、子どもの頃から原料の藍葉の仕入れ調達に関わった経験が、後の合理主義思想の形成につながったと言われている。
1861年(万延2年)、江戸に出ると、千葉道場に入門し、剣術修行を通じて勤皇志士と交友するようになる。その後、京都に移り、一橋慶喜に仕える。
1866年(慶応2年)12月、慶喜が将軍になったことにより幕臣となる。1867年(慶応3年)、将軍名代に随行し、パリ万博を視察し、ヨーロッパ各国を訪問する。大政奉還が起きると帰国を命じられ、1868年(明治元年)12月、横浜港に帰国する。
帰国後は謹慎していた慶喜のもとに留まったが、その活躍を聞いた大隈重信に説得され、1869年(明治2年)11月、新政府に出仕することになる。民部省で改革の企画立案を行い、度量衡の制定や国立銀行条例制定に携わった。
1870年(明治3年)、官営富岡製糸場の設置主任となる。
1871年(明治4年)年7月に民部省が大蔵省に統合されることに伴い、大蔵権大丞となり、次いで大蔵大丞となる。しかし、予算編成をめぐって大久保利通や大隈重信と対立し、1873年(明治6年)、退官する。

1873年(明治6年)、第一国立銀行(現・みずほ銀行)の総監督役に就任し、全国に設立された国立銀行の指導、支援を行う。東京貯蓄銀行(現・りそな銀行)、日本勧業銀行(現・みずほ銀行)、日本興業銀行など、多くの銀行開業に関わる。
1878年(明治11年)、東京商法会議所を設立すると、広く資本を集め事業を起こすために株式市場の創設が不可欠として、東京株式取引所(現・東京証券取引所)を設立する。

1885年(明治18年)、日本郵船会社(現・日本郵船株式会社)、東京瓦斯会社を設立。
1886年(明治19年)、日本初の電力会社である東京電灯会社を設立。
1900年(明治33年)、男爵となる。
1909年(明治42年)、古稀となり、多くの企業・団体の役員を辞任する。渡米実業団の団長として、全国の商業会議所会頭を率いて訪米。タフト大統領と会見し、3ヵ月かけてアメリカ各地を訪ねて貿易摩擦の解消と相互理解の進展に努めた。
1916年(大正5年)、喜寿となり、実業界を引退。『論語と算盤』を著し、利益を独占するのではなく、国全体を豊かにするために、富は全体で共有するという「道徳経済合一説」を唱える。
1917年(大正6年)、理化学研究所の設立者総代となる。
1918年(大正7年)、田園都市株式会社(現・東急電鉄)の設立発起人となり、都市近郊開発を進める。
1931年(昭和6年)11月10日、正二位に叙せられるが、翌日、永眠。享年91歳。

渋沢栄一は、1840年(天保10年)2月13日、現在の埼玉県深谷市の豪農の家に生まれる。藍玉の製造販売を手掛けており、子どもの頃から原料の藍葉の仕入れ調達に関わった経験が、後の合理主義思想の形成につながったと言われている。
1861年(万延2年)、江戸に出ると、千葉道場に入門し、剣術修行を通じて勤皇志士と交友するようになる。その後、京都に移り、一橋慶喜に仕える。
1866年(慶応2年)12月、慶喜が将軍になったことにより幕臣となる。1867年(慶応3年)、将軍名代に随行し、パリ万博を視察し、ヨーロッパ各国を訪問する。大政奉還が起きると帰国を命じられ、1868年(明治元年)12月、横浜港に帰国する。
帰国後は謹慎していた慶喜のもとに留まったが、その活躍を聞いた大隈重信に説得され、1869年(明治2年)11月、新政府に出仕することになる。民部省で改革の企画立案を行い、度量衡の制定や国立銀行条例制定に携わった。
1870年(明治3年)、官営富岡製糸場の設置主任となる。
1871年(明治4年)年7月に民部省が大蔵省に統合されることに伴い、大蔵権大丞となり、次いで大蔵大丞となる。しかし、予算編成をめぐって大久保利通や大隈重信と対立し、1873年(明治6年)、退官する。

1873年(明治6年)、第一国立銀行(現・みずほ銀行)の総監督役に就任し、全国に設立された国立銀行の指導、支援を行う。東京貯蓄銀行(現・りそな銀行)、日本勧業銀行(現・みずほ銀行)、日本興業銀行など、多くの銀行開業に関わる。
1878年(明治11年)、東京商法会議所を設立すると、広く資本を集め事業を起こすために株式市場の創設が不可欠として、東京株式取引所(現・東京証券取引所)を設立する。

1885年(明治18年)、日本郵船会社(現・日本郵船株式会社)、東京瓦斯会社を設立。
1886年(明治19年)、日本初の電力会社である東京電灯会社を設立。
1900年(明治33年)、男爵となる。
1909年(明治42年)、古稀となり、多くの企業・団体の役員を辞任する。渡米実業団の団長として、全国の商業会議所会頭を率いて訪米。タフト大統領と会見し、3ヵ月かけてアメリカ各地を訪ねて貿易摩擦の解消と相互理解の進展に努めた。
1916年(大正5年)、喜寿となり、実業界を引退。『論語と算盤』を著し、利益を独占するのではなく、国全体を豊かにするために、富は全体で共有するという「道徳経済合一説」を唱える。
1917年(大正6年)、理化学研究所の設立者総代となる。
1918年(大正7年)、田園都市株式会社(現・東急電鉄)の設立発起人となり、都市近郊開発を進める。
1931年(昭和6年)11月10日、正二位に叙せられるが、翌日、永眠。享年91歳。
この時代の世界
参考書籍
![]() |
渋沢栄一伝 | ||
著者 | 幸田 露伴 | ||
出版社 | 岩波書店 | ||
サイズ | 文庫 | ||
発売日 | 2020年11月17日頃 | ||
価格 | 891円(税込) | ||
ISBN | 9784003600382 | ||
「日本資本主義の父」とまで呼ばれる渋沢栄一の伝記を、文豪が撰述。士は士を知る。本書は、類書中、出色独自の評伝。激動の幕末・近代を一心不乱に生きた一人の青年は、「その人即ち時代その者」であった。枯淡洗練された名文は、含蓄に富む解釈を織り込んで人間・渋沢栄一の生涯を活写する。露伴史伝文学の名品。 | |||
![]() |
現代語訳 論語と算盤 | ||
著者 | 渋沢 栄一/守屋 淳 | ||
出版社 | 筑摩書房 | ||
サイズ | 新書 | ||
発売日 | 2010年02月 | ||
価格 | 902円(税込) | ||
ISBN | 9784480065353 | ||
日本実業界の父が、生涯を通じて貫いた経営哲学とはなにか。「利潤と道徳を調和させる」という、経済人がなすべき道を示した『論語と算盤』は、すべての日本人が帰るべき原点である。明治期に資本主義の本質を見抜き、約四百七十社もの会社設立を成功させた彼の言葉は、指針の失われた現代にこそ響く。経営、労働、人材育成の核心をつく経営哲学は色あせず、未来を生きる知恵に満ちている。 | |||
![]() |
雨夜譚(あまよがたり): 渋沢栄一自伝 | ||
著者 | 渋沢 栄一/長 幸男 | ||
出版社 | 岩波書店 | ||
サイズ | 文庫 | ||
発売日 | 1985年11月16日頃 | ||
価格 | 1,067円(税込) | ||
ISBN | 9784003317013 | ||
激動の幕末維新を背景に、大実業家・渋沢栄一(1840-1931)が疾風怒涛の青春を語る自伝。尊攘倒幕の志士→徳川家家臣→明治政府官僚と転身を重ねる著者の生き方は鋭い現実主義に貫かれた魅力をもち、維新変革をなしとげたエネルギーが生きいきと伝わってくる。実業家時代を概観した「維新以後における経済界の発達」を併収。 | |||
参考サイト
- 東京商工会議所
- 公益財団法人 渋沢栄一記念財団
- 渋沢栄一の紹介:深谷市ホームページ
(この項おわり)